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啓明さん
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ブログ 2010年10月11日
赤報隊の最後 
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幕末の慶応三年に起きた荻野山中藩襲撃事件についてご存知の方は多いかと思います。

この襲撃事件は、明治維新の先駆けとなった薩摩藩邸浪士隊が、歴史の舞台に最初に登場した事件として見直されています。

 

(山中藩襲撃事件と薩摩藩邸浪士隊のあらまし)

慶応三年に起きた山中藩襲撃は、相楽総三を中心に組織された浪士隊により実行された事件でした。

京都にあった相楽総三等は、西郷隆盛の指示を受け、江戸薩摩藩邸で浪士隊を結成します。

 

浪士隊は、江戸を孤立化し、江戸市中を撹乱することで幕府勢力により薩摩藩を攻撃させることで、公武合体派が目論んでいた徳川幕府と京都勢力が協力した政治体制への移行を断念させることを目的としていました。

 

衰えが見えているとはいえ日本最大の軍事力を持ち、フランスなど諸外国の支援を受けている徳川幕府の力は、決して侮れるものではなく京都に参集した諸侯にとっても、自分たちを中心とした新しい政治体制を築く上で、徳川幕府との協力体制は欠くことのできないものでした。

 

諸藩の下士を中心とした尊皇攘夷派にとって公武合体が成功し、徳川家と諸侯が協力体制を築くことは、自分たちが政治の中心となる機会を失うことを意味しており、なんとしても阻止しなければならないことであったといえます。

 

京都から江戸薩摩藩邸に到着した相楽一行は、集まった浪士を三つに分け甲州、相模、下野の三方面に派遣します。

このうち、部分的であれ、かろうじて成果を挙げたのは慶応三(1867)年12月13日に鱒淵四郎が率い相模国荻野山中藩に向け出発した襲撃隊でした。

 

浪士隊のメンバーであり、事件の数年前から多摩を中心に天然理心流を教えていた、結城四郎が門弟を引き連れて合流したことで、江戸薩摩藩邸を出立した時には、わずか数名であった鱒淵部隊は下鶴間で数十名の部隊となり、1215日、荻野法界寺で部隊を整えたときには、荷駄隊を含めて300名にまで膨れ上がっていました。

 

幕閣に加わっていた小田原藩の支藩であり、藩主をはじめ主だった家臣が江戸に在住していた荻野山中藩は、緒戦の相手として格好の標的であったといえます。

部隊を厚木に展開しながら、先遣隊を酒匂川の川岸にまで進めた鱒淵隊は小田原藩の出兵を確認すると、直ちに部隊を解散し八王子を抜け江戸への退却を行ないます。

 

この退却の際、集まった300名の荷駄隊を解散し、豪農などから調達した軍資金、調達物質は荷駄隊の労賃として支払い、残りを貧しい人々に分け与えています。

この出来事は、鱒淵隊が単に幕末の混乱に乗じて集まった烏合の衆ではなく、組織として理想を持った統制のある部隊であったことを意味していると思います。

 

小島四郎は総三の本名 水原二郎は副隊長落合直亮の別名

 

甲府と下野に向かった部隊は、いち早くこの動きを察知した八王子千人同士隊、八州廻りなど幕府側手勢の襲撃により全滅。

結局、かろうじて成果を挙げた浪士隊は鱒淵隊のみという結果に終わりました。

この失敗の後、浪士隊は三田薩摩藩邸を本拠地に江戸市中の撹乱工作活動に集中します。

 

 

薩摩浪士隊を名乗る浪士によって引き起こされた江戸住民に対する乱暴狼藉に手を焼いた小栗上野介は、薩摩藩との武力衝突を避けようとする勝阿波守(勝海舟)の制止を振り切り、幕府の江戸治安部隊に薩摩藩邸襲撃を指示します。

実際に江戸市中で乱暴を働いていたのは、薩摩藩浪士隊の名を借りた市井の浪士たちであったようで、薩摩浪士隊は、相楽等の統制の下で厳しい規律を守っていたそうです。

浪士隊の法度により江戸の一般住民に対する乱暴狼藉は厳しく戒められ、規律に反したものは、断罪に処せられたといいます。

 

実際がどのようであったにしても、西郷や相楽の思惑通り、幕府による薩摩藩邸襲撃が実行され、これをきっかけに、徳川と薩長連合による戦いの火蓋が切られます。

京都の主流は諸侯を中心とした穏健な公武合体論から、薩摩、長州の下士を中心とした急進的な尊皇攘夷論に移っていきます。

時代の流れは、まさに西郷らの描いたとおりとなり、政治の中心は藩主たちの手から薩長の下士の手に移っていきます。

 

(赤報隊の進軍)

さて、1225日に幕府よる薩摩藩邸襲撃が行われますが、浪士隊は早々と薩摩藩邸を脱出、勢力を分散し主力部隊は薩摩軍艦鳳翔丸に乗り込み、残った兵力も陸路を上洛の途につき、京都での再結集を目指します。

このとき、幕府軍艦咸臨丸と鳳翔丸の間で激しい砲撃戦があったと伝えられています。

 

京都で再結集した浪士隊は新たな隊士を加え、ここに「赤報隊」が結成されることになります。

赤報隊一番隊は相楽総三、二番隊は元新撰組の鈴木三樹三郎 三番隊は江州水口藩浪士の油川錬三郎がそれぞれ指揮を執り公家の綾小路俊実卿と滋野井公寿卿が二番隊、三番隊と同行ことになります。

慶応4年1月8日、官軍先遣隊として発足した赤報隊は、いよいよ東山道を江戸に向かって出発します。

   

 

東海道鎮撫総督より東海道を北上するように指示を受けた総三ですが、碓氷峠こそが討幕軍の死命を決する地であるとして、東山道を進軍することを選んだといいます。

 

総三の下に集まった隊士の多くは、平田篤胤の国学を学んだ同志であり、同じく平田国学の影響下にあった東山道を江戸に向かうことが先遣隊として有利な状況にあったこともその原因であったのではないかと思います。

 

このときの様子が、島崎藤村の「夜明け前」で描写されています。

「夜明け前」は、藤村の父であり当時、馬籠宿の大百姓を勤めていた島崎重寛(正樹)が残した日記を基に書かれた小説ですが、総三等と同じく平田篤胤に薫陶していた主人公青山半蔵(モデルは島崎正樹)達が、時代の「夜明け」を夢見て赤報隊に次々と資金や物資を供出していく様子が描かれています。

 

「年貢半減之令」の令旨を受け取り、意気揚々と東山道を行軍する赤報隊三隊の姿は、沿道の民にとっては、まさに新しい時代の幕開けを予感させるものであったと思います。

しかし、そのころ京都では、赤報隊が出陣したときとは大きな状況の変化が生まれていました。

 

徳川幕府と比較し、兵力や軍資金で劣勢であった官軍も、「年貢半減之令」により次々と領民を味方につけていきました。これにより官軍が有利と判断した、各藩は訓練された兵力を官軍に提供します。さらに、この形勢を見た三井、鴻池といった豪商は資金援助を申し出ていました。

 

充実した兵力を手に入れ、豪商の資金提供を受け始めた官軍にとって、豪商たちが大きな収入源とした年貢の買い上げを妨げる「年貢半減之令」は、もはや邪魔者でしかなくなっていたのです。

東山道を進軍する赤報隊に対し、隊の解散と帰京の命令が出され、「年貢半減之令」はなかったものとするための方策が次々と打たれていきます。

 

(赤報隊の最後)

農民の開放と新しい時代の到来を目指し、東山道鎮撫総督の命令に抵抗しながらも官軍進軍の要の地と考えていた碓氷峠に到着した赤報隊一番隊(このころには京都からの指令により二番隊、三番隊は戦列を離脱し、京都への帰還の途についており、総三隊は嚮導隊と名乗っていました)に駆けつけたのは落合直亮と権田直助の二名でした。

 

落合は、別名を水原二郎と名乗り、総三とは江戸薩摩藩以来の盟友です。薩摩藩邸浪士隊の副隊長を勤めていた落合は、京都で赤報隊を組織した総三と別れ、やはり江戸以来の同士であり、後に大山阿夫利神社宮司となる権田直助とともに赤報隊の活動資金の調達に走り回っていました。

 

資金調達の活動の中で、京都の状況が変化したことを察知した二人は碓氷峠に陣を張った赤報隊で総三と面会し、京都の不穏な動きを伝え進軍を自重し、指令に従い引き返すように諭したといいますが、総三の決意は変わらなかったようです。

 

翌日、総三と別れた二人が碓氷峠を下ったころ、下諏訪の町では東山道を江戸に向かう東山道鎮撫総督軍本隊が到着していました。

下諏訪本陣に陣をおいた鎮撫総督軍本隊から、碓氷峠に陣をおいた総三に直ちに本陣に出向くようにという指示が入ります。総三は心配する同士を残し、若い隊士大木四郎一人を連れて本陣に向かったといわれています。

 

本陣で何があったのかわかりませんが、総三から嚮導隊に向けて一通の命令が届けられます。

 

「全員、陣を解き本陣に出向くように」としたためられた、この文を見たとき不思議な感覚を持ちました。

この指令書からは少しの迷いも感じることができず、伸びやかな文字で一気にしたためられた文字のように思えたのです。

   

 総三が隊士に出した下山の指令書

 総三か捕らえられた本陣

 

下諏訪の方に伝えられている話では、本陣に出頭した総三は直ちに捕縛され、嚮導隊士に下山する指令書を書かされた後、下社境内の木に縛られてしまった言うことですが、残された文書からは、そのような緊迫感をまったく感じることができなかったのです。

 

嚮導隊の隊士は、そのほとんどが江戸の薩摩藩邸浪士隊時代から総三と苦楽をともにしてきた人たちでした。総三が本陣に出頭すること自体を心配していた隊士が受け取り、全員で峠を下り本陣に出頭したというのですから、これが総三の直筆であり、隊士に不安を感じさせないものであったということだと思うのですが、総三がどのような状況でしたためたものだったのでしょうか。

 

下諏訪の資料館で出合った、この古文書を前にして、しばらくの間、そのとき起きた出来事を考えてしまいました。

 

下諏訪の町に伝えられている話をもう少し続けます。

 

下社境内の杉に縛られた総三は、小雨の中で一晩を過ごします。そして、総三の指示により本陣に出頭した隊士も全員捕縛されてしまいます。

翌日には、捕らえられ嚮導隊士に、斬首8名をはじめとして次々と刑が言い渡されます。

罪状は「世の混乱に乗じて官軍を僭称し、『年貢半減之令』というありもしない勅を触れ歩き、いたずらに人心を迷わせたことは誠に許されざる所業である」ということでした。

 

総三等の処刑は直ちに実行されます。下社から300mほど離れた空き地に引き出された隊士は次々と斬首の刑に処せられます。

総三は、仲間の最期を見届けた後に刑に処せられます。捕縛以来一度の取調べも無く一切の抗弁を封じられたままの最期でした。

 

 

総三等が一晩捕らえられていた諏訪下社

 

下諏訪の人たちの間には、斬首刑に処せられた、このときの総三の様子が今に伝えられています。

 

そこで語られている情景は、「夜明け前」で主人公青山半蔵(モデルは島崎藤村の父正樹)が集まった村民に捕らえられ、狂人として座敷牢に連れて行かれるときの様子を彷彿とさせるものです。

 

総三の故郷では、夫の最期を知らされた照が二人の間にできた一子河二郎を総三の両親と姉夫婦の住む小島家に送り出し総三の後を追い自害してしまいます。

 

小島家では、残された子を守りながらひっそりと明治の世を過ごされたそうです。

 

これが、「偽官軍事件」といわれている明治維新前夜の出来事です。総三たちの斬首により部隊は崩壊し、「赤報隊」の名は歴史の中から消え去ろうとしていました。

 

(残された人々)

資金集めや部隊の連絡のため総三たちと別行動をとっていた落合・権田の二人は隊を離れていたこともあり、この事件で直接糾弾されることはなかったようです。

総三たちの最期を知った二人は、その正当性を訴えて奔走します。

明治3年(18703月、どうにか官許を得ることができ下諏訪の処刑地跡にこの地で処刑された8名に別の地で処刑された2名を加えた慰霊碑を建立するまでにこぎつけます。

 

慰霊碑は、二人と下諏訪に住む総三らを知る人々の手で建立され、「魁碑(さきがけのひ)」と名づけられ、落合直亮は、総三たちの活躍を語ります。

そして、落合の養子となった落合直文は、養父の語る総三たちの姿を「しらゆき物語」に書き記しました。

 

総三らが、下諏訪に住む平田国学者たちと交流があり、赤報隊による進軍以前より下諏訪の人たちにはなじみの人物であったこともあり、慶応三年の偽官軍事件と総三らの処刑は下諏訪の人たちには驚きをもって向かえられたようです。

そのことが、総三に関する資料が下諏訪に多く語り継がれ、終焉の地に魁碑が建立された一因となっているのでしょう。

 

総三たち処刑された人たちの活躍が認められ、復権できたのは、死後62年経過した後でした。

総三の孫に当たる木村亀太郎氏が仏壇の奥に隠されていた血糊の着いた毛髪を発見。そのいきさつを知り祖父の名誉回復に一生を費やした結果ということです。

亀太郎氏や渋沢栄一氏などの運動により昭和3年、総三は正五位に除せられることになります。

   

 昭和3年 総三は正5位と成った

遺族を招いて執り行われた魁祭

 

総三らが処刑された43日(旧暦の33日)に下諏訪の町では毎年魁祭では、下諏訪町長をはじめとして町議会議員、教育委員会の方々などが出席、小島家など処刑された人たちの親族も参列されるなか、諏訪神社の神主さんによる慰霊の式が行われてます。

 

明治3年に始まったこの慰霊祭は何度か中止されましたが、総三の姉はま子さん、木村亀太郎氏や下諏訪の方達などの努力により今年で143回目。今年も御柱祭の準備の追われる下諏訪の町でしめやかに執り行われました。

 
参考文献:諏訪史料叢書(相楽総三関連文書)
     相楽総三とその同士(長谷川伸)   
     明治維新草奔運動史(高木俊輔)
     神奈川県の歴史(神崎彰利他
 
関連記事 :荻野山中藩と浪士隊
 
掲載日 2010年10月11日 22:55
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エントリー
コメント (7)
1. T.Sさん | 2010年10月12日 15:08
何時もながら、興味」を持って読ませていただきました。
相楽総三が昭和になつて叙勲されたことを初めて知りました。
2. 啓明さん | 2010年10月12日 21:53
コメントや応援していただいた皆さん、長い文章ですみません。読みにくかったのではないですか。
 
T.Sさん
総三が、昭和になって、やっと叙勲されたのには理由が在ります。
 
木村亀太郎さんや支援された方の奔走にもかかわらず、なかなか叙勲にまで行き着かなかったのは、総三の処断を行ったのが時の政府であり、斬首を行ったのは薩摩藩士であったことが大きかったようです。
 
叙勲するということは、総三の行為を認めることであり、それは取りも直さず、政府、特に薩摩出身者にとっては自分達の行為の否定でもあったと云うことです。
 
渋沢栄一も、旧幕臣であったために総三の叙勲を表立って積極的に支援することができなかったようです。
 
これはこれで、面白いと思っているのですが・・・・何かの機会にご紹介できたらいいですね。
 
3. NIMOさん | 2010年10月12日 22:37
時代が大きく転換する激動の時代に生きて、歴史を創っていった人々が、私たちの足元、あるいはふるさとの町に生きて、決意し決起し次代を見ることなく逝ったのだと、なにやら不思議な懐かしさと敬意と畏敬を感じながら、、じっくり読み込んでしまいました。
4. 啓明さん | 2010年10月12日 23:19
NIMOさん
 
ありがとうございます。総三はわずか一年と云う短い時間の中で、時代を駆け抜けて行った人物です。
 
その仲間達も、理想を追いかけ時代の中に姿を消して行きました。
 
でも、私はそんな総三たちの姿とその足跡をもう少しご紹介していきたいと思っています。
 
つたない文章で、時間もかかると思いますが、これからもよろしくお願いします。
5. 痩蛙子さん | 2010年10月13日 10:22
相楽総三と赤報隊一番隊といえば、”るろうに剣心”しか知らない、歴史オンチですが、荻野山中藩襲撃事件をチョット齧り、少し知識をたくわえました。
今回、この様な、詳細な解説を読まして頂き、益々、明治に至る幕末の面白さを知る事が出来た事に感謝いたします。
 
相楽総三と赤報隊一番隊が島崎藤村の”夜明け前”に繋がっていたとは、知る人は知る事なのかも知れませんが、興味深いものでした。
 
輝かしい明治の裏での影には何かと興味をそそられます。
関連記事の継続を期待します。
6. 退会者さん | 2010年10月13日 22:50
私も間 正一さんと同じく、相楽総三は「るろうに剣心」の
カッコイイ姿しか知りません。
 
そして、西郷さんって「人の良いおじさん」のイメージでしたが、
相当腹黒い人なんですねぇ。
7. 啓明さん | 2010年10月14日 21:29
 
コメントありがとうございます。時間はかかると思いますが、もう少し「赤報隊」とその周辺について書かせていただくつもりですので、お付き合いいただけると嬉しいです。
 
西郷さんって「腹黒い人」?・・・・そんな印象になってしまいましたか
 
最初のころ、そんな気になったこともあるのですが、最近はちょっと変わってきました。
 
最近では、西郷さんは、純粋な人だったのではないかと思います。「薩摩藩邸襲撃事件」では、他の藩ではなく、自藩の藩邸を焼き討ちの標的に仕向けています。また、「清水寺の月照上人との心中事件」では、避難させた倒幕派の月照を薩摩に受け入れてもらえず一緒に入水してみたり、「西南戦争」では私学生の決起に従うなど、どれを見ても、その時々に自分ができることを一生懸命考えていたと思います。
だから、みんなに敬愛されたのだと思います。
 
鹿児島市内には、西郷さんの事蹟はたくさん在りますが、大久保利通さんの事蹟は・・・・・・・・
 
それにしても、誰でしょうね。
前言撤回に「偽官軍」などと云う手を考え付いたのは・・・・・
 
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